百囀集
夏井いつきが市井の佳句を一句鑑賞
立冬の匂ひは硝子百グラム 玉庭正章
- 季語
- 立冬
- 季節
- 初冬
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- 「立冬」は映像を持たない時候の季語。それにもし匂いがあるとしたらという比喩の発想ですが、「硝子百グラム」が絶妙です。
「百グラム」については読みを迷いましたが、冬という季節が硝子の匂いだとすれば、「立冬」はその「百グラム」分ぐらい、と読み解きました。
そう読めば「立冬」という季語は効いてくるかと思うのです。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2022年10月20日週分)
豊胸の弁財天や秋高し みなと
- 季語
- 秋高し
- 季節
- 三秋
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- この豊かさ、いいですね。「弁財天」は、琵琶を弾く天女の姿で描かれる七福神の紅一点。たまたま目にした「弁財天」の「胸」がなんともグラマラスだという愉快が「豊胸の弁財天や」という措辞に弾けます。
季語「秋高し」が持つ豊穣のイメージは、福徳・諸芸能上達・財福の神である「弁財天」にも通じます。「豊胸」の女神ともなれば、その感は尚更でありましょう。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年9月12日週分)
胸郭はさみしき籠や後の月 綾竹あんどれ
- 季語
- 後の月
- 季節
- 晩秋
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 「胸郭(きょうかく)」とは、胸椎・肋骨・胸骨から構成される籠状の骨格です。心臓や肺など重要な臓器を保護する胸郭ですが、それを「さみしき籠」という表現した詩語に惹かれます。
「後の月」とは、旧暦九月十三夜の月。満月の二夜前、少し欠けた月を愛でる心は、自身の胸中にある「さみし」を味わう心と触れ合い、響き合います。
八月十五夜を見て、九月十三夜を見ないのは「片見月」といって忌んだのも古人の美意識。季語「後の月」は、八月十五夜へと思いを馳せるニュアンスをも含みます。『源氏物語』の世界から現代まで連綿と繋がる「さみしき籠」の物語が、この一句に封じ込められているかのようにも思われ、心打たれた一句です。
(鑑賞:夏いつき)
(出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2023年10月兼題分)
実むらさき千年つづく鈴祓ひ 龍田山門
- 季語
- 実紫
- 季節
- 晩秋
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 「実むらさき」は「紫式部」の傍題。その名前から、『源氏物語』の作者紫式部を思わないではいられません。紫式部が生きた平安時代は千年前。その「千年」というキーワードを巧く使って、下五「鈴祓ひ」を取り合わせました。
「鈴祓ひ」とは、神社における祈祷の際、祝詞の後に鈴を使って行われるお祓い。清らかな鈴の音が、人々の穢れを祓い、心身を清浄にするといわれています。
試みに上五を「紫式部」に替えてみると、傍題がいかに生かされているかが分かります。「実」の一字が「鈴」の形状にもつながり、「むらさき」の印象が「千年」前に『源氏物語』を書き残した一人の女性の存在を匂わせます。「千年つづく鈴祓ひ」を行う神社の片隅には、この秋も「実むらさき」が美しい実をつけているはずです。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2020年9月3日週分)
あしびきの山犬睨む落とし水 ちびつぶぶどう
- 季語
- 落し水
- 季節
- 仲秋
- 分類
- 地理
- 鑑賞
- 「落し水」の恩恵を知っているのは鴉だけではありません。「山犬」も、棚田の「落し水」が終わった後に、ささやかな獲物が簡単に手に入ることを知っているのでしょう。「睨む」という動詞も「山犬」を描写する言葉として的確に機能しています。
なんといっても掲出句の特色は、枕詞「あしびきの」を使っている点にあります。俳句における枕詞は十七音のうちの五音を浪費するに等しいわけですから、その浪費がある種の効果を発揮してくれないと、使う意味はありません。優美な枕詞でもある「あしびきの」という上五が「山犬」という禍々しい印象を内包する言葉にくっついていく意外性もさることながら、「あしびきの」は周りの景色を彷彿とさせる効果も持っていますので、枕詞を使うという冒険をここは褒めるべきでありましょう。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2014年9月4日週分)
祖父も父も吾も子も桃を食う犬歯 浅野勇一郎
- 季語
- 桃
- 季節
- 初秋
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 四代を表すのに大半を費やした後に出てくる犬歯。四代そろった丈夫そうな犬歯と、桃に歯が食い込む様子が目に見えるようです。
林檎や梨ではなくて、桃なのがいいですね。桃の食べ方はもちろん、持ち方や美味しそうな表情までもがそっくりなのかもしれません。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:第19回はぴかちゃん歯いく大賞)
水澄むといふ絶え間なきみづの孵化 眩む凡
- 季語
- 水澄む
- 季節
- 仲秋
- 分類
- 地理
- 鑑賞
- 「水澄む」は地理の季語。元々は「秋の水」の傍題だったものが、独立した季語として使われ始めたようです。湖・川・沼・池など淡水を指すと私は理解していましたが、「海水は含まない」と明記している歳時記には(今のところ)出会えませんでした。
が、秋の澄んだ大気が水に及び、透明度をうっとりと覗き込むかのような感覚のこの季語を、私のイメージ通りに表現してくれた句に出会うことができました。
季語「水澄む」とは、絶え間なく水が孵化していくことだという詩的断定。秋の泉の底から湧いてくる美しい水のかたまりのような孵化もあれば、秋澄むという季節の孵化が地表の全ての水に及んでいくかのようなダイナミックなシーンとも読めます。季語「水澄む」の一物仕立てとしても秀逸。愛唱句がまた一つふえました。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2023年9月兼題分)
喪の明けて外は鯊釣日和かな 大塚めろ
- 季語
- 鯊釣
- 季節
- 三秋
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 「喪の明けて」からの語りが地味に巧い一句。中七「外は」と視線を切り替えて「鯊釣日和かな」と詠嘆したとたんに、周囲の光景がひかりと色彩をもって立ち上がってきます。
「鯊釣日和」という言葉は、故人の思い出につながる「鯊釣」かもしれませんし、生き残った自分の心を切り替えるきっかけとなり得る「鯊釣」なのかもしれません。
「かな」の詠嘆が、ほろほろと心に響きます。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年8月8日週分)
鯊釣の河口聳ゆるラブホテル もね
- 季語
- 鯊釣
- 季節
- 三秋
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 「鯊釣」は子どもの頃からこの「河口」だったのでしょうね。見慣れた光景が年々少しずつ姿を変えてきた昨今。
なんと今年は、聳えるかのように賑々しい「ラブホテル」まで建っているよ、という溜息。
「聳ゆる」の動詞が「ラブホテル」の描写でありつつ、作者の心情の表現にもなっているのだと読ませて頂きました。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年8月8日週分)
歯ブラシのロケットすすむ銀がかな 宮﨑耀太郎(新居浜市立金子小学校一年)
- 季語
- 銀河
- 季節
- 初秋
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 「歯ブラシのロケット」という言葉が、読者を一気にSF(空想科学小説)の世界へ誘います。
口の中は無重力の位宇宙空間。白いブラシのロケットがぐんぐん進む。隕石のように並ぶ歯と歯の隙間を磨き、奥歯に到達して回転。口をすすいで、無数の星をまき散らす。
澄む秋の夜空に横たわる天の川=「銀河」と、口中の世界が楽しく繋がります。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:第18回はぴかちゃん歯いく大賞)
※ 学年は応募当時のもの
立派すぎる盆提灯が来てしまう 青萄
- 季語
- 盆提灯
- 季節
- 初秋
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 笑ってはいけないが、こういうことあるなという共感の一句。
せめて供養ぐらいはと思いきって注文した「盆提灯」がこんなにも「立派」とは?!
こんな出来事にこそリアリティという名の滑稽があるのです。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2019年7月兼題分)
枝豆のしほあぢ龍のなみだほど どかてい
- 季語
- 枝豆
- 季節
- 三秋
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- かつての「枝豆」は「月見豆」と呼ばれ、十五夜にお供えするものでした。
春には淵をでて天へのぼる龍、秋になると淵に潜む龍。「龍のなみだほど」という比喩は、「しほあぢ」の塩梅を表現するだけでなく、「枝豆」が秋の季語であるという事実をさりげなく伝える工夫でもあります。
「龍のなみだほど」という比喩、きれいですね。大皿山盛りの「枝豆」ではなく、会席膳に上品に添えられた「枝豆」を想像しました。「枝豆」の莢の中にあるささやかな「しほあぢ」を味わう度に、これは「龍のなみだ」の味なのだと思えば、淵に潜みて、十五夜の月を水底から見上げる龍の心持ちに寄り添えそうな気がいたします。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2015年8月6日週分)
氷水眼鏡にくぼむ耳の裏 綱長井ハツオ
- 季語
- 氷水
- 季節
- 三夏
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 「氷水」が喉を通る。どこかがキュンと縮む冷たさ。
その瞬間、「眼鏡にくぼむ耳の裏」が意識される。
「氷水」に対する肉体的知覚が独特でリアルな一句。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句季刊誌 伊月庵通信 2020年秋号 「百囀集」)
河童忌のルビンの壺に貌がない とかき星
- 季語
- 河童忌
- 季節
- 晩夏
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 「ルビンの壺」とは、デンマークの心理学者エドガー・ルビンが、認知心理学の見地から考案した多義図形の一つ。特に有名なのが、このルビンの壺で、画面中央にある白地を認識すると白い壺に見え、画面両側の黒地を認識すると二人の人物が向かい合った横顔に見える図形です。通常この二つの絵柄は、同時には見えないのです。
この句の面妖さは、「ルビンの壺」の図形の「貌」がなくなっているという認識。読んだ瞬間、芥川龍之介著『河童』の世界を覗き込んでいるかのような心持ちになりました。白い壺から人物の横顔へ視線を切りかえようとしたのに、肝心の「貌がない」。その呟きは、再び河童の世界へ戻ろうとしたとたんに、精神の均衡が崩れいく、あの小説をたった17音で象徴しているようで、慄然としました。恐ろしくて哀しい作品です。
※ 河童忌:7月24日
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2023年7月兼題分)
影持たぬ蜘蛛影として生きるかな ハムテル
- 季語
- 蜘蛛
- 季節
- 三夏
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 「蜘蛛」の「影」は、蜘蛛の体の下に潜んでいます。当たり前の事実をこのように提示するだけで詩が発生するのも俳句の特性です。
「影として生きるかな」という詠嘆に、嫌われる「蜘蛛」たちの哀れも読み取れます。
さらに深読みして、そんな「蜘蛛」の姿に作者自身の人生なり感慨なりが投影されている、と鑑賞する人もいるかもしれません。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年5月9日週分)