株式会社 夏井&カンパニー

百囀集

夏井いつきが市井の佳句を一句鑑賞

  • 行くあてのなき犬海は春めかん  理酔

    季語
    春めく
    季節
    初春
    分類
    時候
    鑑賞
     風も空も波もすべてがひかりの粒を弾きはじめるのが春という季節です。「行くあてのなき犬」までを一気に読ませた後に出現する「海」には、冷たくも明るい光の波がひしめきあっています。
     そんな春めく埠頭には野犬が一匹。首を垂れ餌を漁る「犬」を「行くあてのなき」ものとして見つめる作者のまなざしにあるのは、憐れみか、いたわりか、自身の境遇を投影した自嘲でしょうか。
     「行くあてのなき」は、痩せて汚れた「犬」を連想させるだけではなく、作者の心を暗示する言葉として働くことに気づくと、一句の心理的奥行きが広がります。
     「海の」ではなく「海は春めかん」と呟く心、春を希求する作者の心情に寄り添いたくなった一句です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年1月31日週分)
  • 河豚ぎゅいと鳴く貧民に余生なし  桃園ユキチ

    季語
    河豚
    季節
    三冬
    分類
    動物
    鑑賞
     季語「河豚」は、種類によって随分とイメージが変わります。専門店で饗されるトラフグは高価で高級な食材。かたや、ハリセンボンの類いは、河豚提灯として吊るされるユーモラスな姿が印象的。ハコフグあたりになると、釣りを邪魔する外道という認識もあり、各々の傍題によって本意そのものが大きく変わります。
     掲出句の巧みは、それらを包括して「貧民に余生なし」と言い切ったところです。食うところも少ない、食えもしない河豚は、釣り上げられて「ぎゅい」と鳴くばかり。釣り上げた人間の方も、また外道かと放り捨てます。「貧民」の我らには「余生」などという優雅な言葉はない。死ぬまで、生きることに必死であるよ。そんな切実な感慨が、「ぎゅい」と鳴く河豚に託された一句です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2023年12月兼題分)
  • うみどりのむくろ錆朱に凍つる傷  伊奈川富真乃

    季語
    凍つ
    季節
    三冬
    分類
    時候
    鑑賞
     「うみどりのむくろ」にある深い傷が凍てているという事実。
     それを突き付けられる衝撃。
     「錆朱」という描写の生々しさ。
     
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:俳句季刊誌 伊月庵通信 2023年春号 「色の歳時記」)
  • 「じゅうりん」てどう書くのだか霜柱  カリメロ

    季語
    霜柱
    季節
    三冬
    分類
    地理
    鑑賞
     自分が喜んでガシガシ「霜柱」を踏んでいるのでしょう。
     そして、ふとこういう感じを「じゅうりん」って言うのか……なんて思うのだけれど、その難しい文字は全く思い浮かんでこない。
     「~どう書くんだか」という投げ出したような語り口にリアリティとユーモアのある一句です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年11月14日週分)
  • 水汲めば仄かに濁り枇杷の花  樫の木

    季語
    枇杷の花
    季節
    仲冬
    分類
    植物
    鑑賞
     「水」を汲んでみると、水底の砂を巻き上げて「仄かに」濁った、という状況を描いた句は幾らでもあります。が、この上五中七の詩句に季語「枇杷の花」が取り合わせられたとたん、一句は化学変化を起こします。
     季語「枇杷の花」は、咲いてるのかどうかも分かりにくい地味な花。誰かが汲むことによって濁るという状態が生じる「水」。それはまるで地味な「枇杷の花」が咲きいづるような仄かな濁りと光なのですよ、「枇杷の花」とは仄かに水を濁らせるように咲く花なのですよ、と一句は語りかけてきます。
     言葉と言葉が出会うことによって生じる詩という名の火花を楽しむのが、取り合わせという手法。仄かなものであればあるほど、慈しみ深い美しさを持つ。それもまた俳句という文芸の滋味というものです。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2018年11月1日週分)
  • 冬凪やボード置き場にまよひ蜂  大久保加州

    季語
    冬凪
    季節
    三冬
    分類
    天文
    鑑賞
     風が強く吹き、海が荒れることの多い冬。そんな中にも、風がおさまり波が穏やかになる日もあります。それが「冬凪」。分類としては天文の季語になります。
     上五「冬凪や」は、嗚呼なんとも気持ちの良い冬凪の日だなあ、という詠嘆です。中七「ボード置き場」の「ボード」は、サーフボードだと読みました。季語に含まれる「凪」の一字の印象が、海を思わせるからでしょうか。
    「冬凪」の日ですから、海は平らか。サーフィンには向かない今日の海です。手入れでもするかと、ボード置き場に近づいたのでしょうか。「まよひ蜂」が、ボード置き場の方へ飛んでいくのを見つけたのかもしれません。
     勿論、季重なりですが、主たる季語は「冬凪」。弱々しい冬の蜂も、その陽気に誘われて飛んできたのでしょう。「ボード置き場」にいる「まよひ蜂」を描くことで、季語「冬凪」を表現。季語の位置づけが明確で、季重なりのお手本のような一句です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2022年11月兼題分)
  • 寒椿雪の温度となつてゐる  佐藤直哉

    季語
    寒椿
    季節
    晩冬
    分類
    植物
    鑑賞
     山茶花の変種のカンツバキもあるようですが、季語としての「寒椿」は冬季に咲く椿という定義になります。
     「雪」との季重なりですが、上五「寒椿」が主たる季語。雪の中の「寒椿」は赤に違いありません。「寒椿」にかぶさるように積もっている雪。もうすでにこの「寒椿」は「雪の温度となつてゐる」に違いない、という気づきに詩があります。
     つまり、寒椿に雪が降っている光景を描写するのではなく、「雪の温度となつてゐる」という措辞によって、伝えたい映像を読者の脳内にて再生させる。ここに新しい試みがあるのです。しかも視覚だけでなく触覚としての冷たさもパッキング。読み下した瞬間に、この「寒椿」に触れようと手をのばす自分を感じました。俳句は、まだまだ色んなことができるのだという刺激をもらった作品です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2019年12月12日週分)
  • 冬の海テトラポッドへ波の自死  小沢史

    季語
    冬の海
    季節
    三冬
    分類
    地理
    鑑賞
     荒い波を防ぐ消波ブロックの代名詞が、テトラポッド(という商標名のコンクリートブロック)。「冬の海」と「テトラポッド」は、光景としても取り合わせとしても定番中の定番ですが、この句の眼目は最後の五音にあるのです。
     テトラポッドにぶち当たっては砕ける波の様子を、作者は「波の自死」だと捉えます。波とは、海自身が無尽蔵に内包する分身です。その波たちは、冬の暗い空の下、テトラポッドを目指して走り出し、ぶち当たり、吼え狂い、砕けます。次々に押し寄せる波たちの自死を、冬の海は薄目を開けて、遠くから見据えているのだと思うと、なんだか空恐ろしくなってきます。たった五音の詩語が、見慣れた光景に新しい意味を与える。それが、俳句という一行詩の力でもあるのです。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2021年11月兼題分)
  • 行列の最後も毛布もらえるか  彩お茶子

    季語
    毛布
    季節
    三冬
    分類
    人事
    鑑賞
     「毛布」という季語は、3・11の東日本大震災以降、新しい側面を持ち始めたように思います。暖をとるための一枚の「毛布」が生き死にを決定する事実に、現代人はおののきました。支援物資として「毛布」を送る句、「毛布」が何百枚届いた句、配る句、その「毛布」にうずくまる句、さまざまな場面を切り取った句も届きましたが、掲出句の切実さに胸を突かれます。
     「行列の最後」という措辞で、評判の店の鯛焼きだろうか、ラーメン屋だろうかと読み手の脳は能天気に先走りますが、その後に出てくる「毛布」の一語にたじろぎます。たじろいだ後で、助詞「も」の意味にハッと気付くのです。
     「行列の最後」に並んでいるのは、作者自身でしょうか。「最後」の人物をじっと眺めていると読むこともできます。のろのろと進みつつ短くなっていく列。はるか前方に堆く積まれていた毛布の山はどんどん低くなっていきます。列と山とを見比べながら、「最後も毛布もらえるか」という呟きは次第に切迫感を持ち始めます。
     すでに毛布をもらった人たちは、避難所のあちらこちらに我が場所を作り始めている。ため息と不安と焦りが渦巻きつつ、読み手である私たちは「毛布」がもらえる瞬間の安堵を思い、「毛布」が足りないと分かる瞬間の落胆を思うのです。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2016年11月3日週分)
  • 霜柱ワシコフの足十六文  猫ふぐ

    季語
    霜柱
    季節
    三冬
    分類
    地理
    鑑賞
     西東三鬼に「露人ワシコフ叫びて石榴打ち落とす」という、よく知られた句があります。この句に出てくる「ワシコフ」を想像しての一句ではないかと読みました。
     叫びて石榴を打ち落とすような「ワシコフ」氏の足はきっと「十六文」ほどもあるに違いない、という発想が愉快。
     しかもこの数詞は、ジャイアント馬場の十六文キックを想像させるので、尚更インパクトがあり、「霜柱」の句としては痛快な怪作となりました。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年11月14日週分)
  • 錆朱なる落葉叙勲は死後でした  平本魚水

    季語
    落葉
    季節
    三冬
    分類
    植物
    鑑賞
     「落葉」の色としての「錆朱」は、後半の措辞「叙勲は死後でした」にも影響を及ぼします。
     「死後」に受けた勲章がおさめられたケース。その艶やかな天鵞絨もまた、錆朱色なのかもしれません。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:俳句季刊誌 伊月庵通信 2023年春号 「色の歳時記」)
  • 水鳥や朝の痛みを鳴き交はす  北野きのこ

    季語
    水鳥
    季節
    三冬
    分類
    動物
    鑑賞
     「水鳥」は、鴨とか鳰とか白鳥とか鴛鴦とか特定の種類をいうのではなく、冬の水辺に集う鳥たちを総称する季語です。つまり、この季語の本意には、それぞれの個体が認識されないぐらいの広い背景や空間が内包されていると考えてよいでしょう。
     一読、かつてロケで訪れた米子水鳥公園の朝の様子がまざまざと蘇りました。身が締まるような冷気のなか、朝の湖に集う水鳥たちの声。あれは「朝の痛み」なのだという詩的断定にドキッとします。冷たい朝のひかりを弾く湖。その圧倒的な明るさに耐えかねて、鳥たちは口々に鳴き交わします。朝を迎える喜びと等分の、生きていく痛みがあるのだと。
     水鳥の言葉を解せる作者の心もまた、眩しいほどの朝の痛みに、声なき声をあげているのかもしれません。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2020年12月兼題分)
  • 初時雨匂天神町上ル  ぐわ

    季語
    初時雨
    季節
    初冬
    分類
    天文
    鑑賞
     「時雨=北山時雨=京都」という発想は誰もがたどる道ですから、「京都」の地名が入った句はたくさん詠まれます。が、その大半は類想の沼に沈んでしまいます。
     この句、「上ル」という表記で京都ではないかと想像はつきますが、「初時雨匂ふ」の「ふ」を入力し忘れたのか? とも疑いました。が、いやいや待てよ「匂天神町」という町名がほんとにあるとしたら、これこそ「初時雨」に相応しい地名ではないかと思い立ち、検索してみました。
     〒600-8414京都市下京区匂天神町(においてんじんちょう)いやあ、あるんだ! とちょっと感動。「匂」は地名の一部なのに、「初時雨」が匂うよ、という印象を読み手の脳に滑り込ませます。地名でこんなこともできるのかと、楽しませてもらった作品でした。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年10月24日週分)
  • 青蜜柑犬歯に滲みる予讃線  桑原 渉

    季語
    青蜜柑
    季節
    三秋
    分類
    植物
    鑑賞
     予讃線は、瀬戸内海と宇和海に沿って香川県高松駅から愛媛県松山駅を経て、宇和島駅に至る鉄道。
     蜜柑の里を眺めつつ、旅しつつ、車窓に食べる青蜜柑が犬歯に滲みる、と鮮やかな五感の一句です。
     甘い蜜柑を作る為に摘果された青蜜柑は、旅愁をかきたてますね。ほろ酸っぱさが口中にいきいきと再現され、旅愁をかきたてます。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:第18回はぴかちゃん歯いく大賞 一般の部優秀賞)
  • 腰抜けの手に石つぶて草の花  青海也緒

    季語
    草の花
    季節
    三秋
    分類
    植物
    鑑賞
     一読、幼少の子規が浮かびました。子どもの頃の子規は、泣きみそで弱みそ。外に出るといじめられては逃げ帰ってくるので、妹の律が石を投げて兄の敵討ちをしていたそうで、母八重の言葉を借りるならば「それはヘボでございます」という子どもでした。
     上五「腰抜け」は、困難に直面する己を表現する一語でしょうが、「手」の中には「石つぶて」が握られています。それは、なにくそという意志であり、反骨であり、この先の人生を生き抜く力の核。踏まれても踏まれても、健気な花をつける「草の花」が、寄り添うように配されています。人生のエールのような一句を、我が手にしっかりと受け止めました。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2022年10月兼題分)