百囀集
夏井いつきが市井の佳句を一句鑑賞
歯科検診フェイスガードの中の汗 吉田 実
- 季語
- 汗
- 季節
- 三夏
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- コロナウィルスと付き合う2020年(※募集当時)ならではの観察。
歯科検診で口を覗き込む医師は、マスクだけでなくフェイスガードもつけています。
フェイスガードの奥に光る「汗」に目を付け描写できる落ち着きが、さすが俳人です。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:第17回はぴかちゃん歯いく大賞 一般の部優秀賞)
猿の爪のごとく黒き夜百物語 ねこ端石
- 季語
- 百物語
- 季節
- 晩夏
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 「百物語=夜」という発想はベタですが、こんな比喩が入るだけで、作品は一気にオリジナリティを取り戻します。
「猿」の一字から始まりますから、読み手の脳内には当然「猿」の姿が浮かぶのですが、すぐに「猿の爪」という部位に焦点が絞り込まれます。おー「猿の爪」かと思った瞬間に「~ごとく」と比喩を表す一語が入り、さらに「黒き夜」が出現する語順は、読み手の脳内にさまざまなイメージが立ち上がらせます。
「猿の爪のごとく黒き夜」という夜の描写、巧いですね。「猿の爪」の黒さをよくよく見たことはないのに、こんな爪を知っているかのような錯覚を起こさせるのがこの句の不敵な企み。さらに下五にて出現する季語「百物語」は、上五中七の世界を一気に巻き込んで、腥い猿の息をも思わせるリアリティで読者を翻弄します。
似たような言葉を使った句はありますが、一句の持つ世界の深さという意味において、この作品は一歩抜きん出ておりました。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2015年7月2日週分)
ねじ山不貞腐れ蚊柱の無敵 おぼろ月
- 季語
- 蚊柱
- 季節
- 三夏
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 螺子回しの下にねじ山が潰れていく。
なんと不貞腐れたねじ山かと悪態をつけば、いきなり蚊柱が押し寄せる。
無敵の蚊柱。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句季刊誌 伊月庵通信 2022年秋号「百囀集」)
みずうみはかっぱのうたげ合歓の花 竹春
- 季語
- 合歓の花
- 季節
- 晩夏
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 実に不思議な感触の一句です。咲き始めた「合歓の花」を見ると、「みづうみでかっぱたちがうたげを始める頃になったのお」と、村の長がつぶやく……そんな妄想をいだきました。
「合歓の花は、静かで優しくアンニュイなイメージ」と語る竹春さん。「合歓の花」があのような形状であのような色に咲くのは、何か特別な理由があるに違いないと、ワタクシも思います。
「みずうみはかっぱのうたげ」という平仮名表記が、まるで美しい呪文のようにも思えてきた一句でありました。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年6月20日週分)
紫陽花のほんとの花に合うピント 富山の露玉
- 季語
- 紫陽花
- 季節
- 仲夏
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 「紫陽花」の花びらに見える部分は、萼です。その真ん中にある粒みたいなのが花。ここが「ほんとの花」なのですね。
紫陽花の原型は、日本の額紫陽花。季語では「額の花」ともいいます。額紫陽花の場合は、真ん中に沢山集まっている粒々の部分が真花で、周りにあるのが装飾花。品種改良によって生まれた「紫陽花」は、装飾花が毬のように集まっています。
紫陽花の写真を撮ろうとしています。「ほんとの花」にピントを合わせようとしているのですから、かなりの接写。ピントが合うまでの短い時間と映像をさらりと表現しました。
「ほんとの花」という詩語に、へえ~この真ん中の粒が花なのか! と、ファインダーを覗く新鮮な驚きもこもっていて、いかにも「紫陽花」らしい素直な作品です。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2022年6月発表分)
梅雨寒ただよふまんばうてふいぎやう 倉木はじめ
- 季語
- 梅雨寒
- 季節
- 仲夏
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- 「梅雨寒」漢字三つの後に平仮名が並んでいます。どこで一単語を構成するのかが分かりにくいので、ゆっくりと読んでいきます。
「ただよふ」=漂う、「まんばう」=翻車魚(マンボウ)、なるほど翻車魚が漂っているのだと分かる。「てふ」は「ちょう」と読んで「~という」の意。「いぎやう」=異形と、意味が全て脳内で構成されたとたん、あ、この句は時候の季語「梅雨寒」を「まんばう」という異形の魚に喩えたのか、と気がつきます。
翻車魚は一トン半から二トンにも及ぶ巨大な魚。胴体が途中で切れたような異形です。外洋の深海にいるかと思えば、ぽかりと表層に浮いていたりもする。その巨体の暗灰色は「梅雨寒」の色です。
「梅雨寒」をカタチにすれば、まさにこのようなものではないかという作者の発想に脱帽いたします。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2020年4月16日週分)
合唱曲万緑の風奥歯まで 渡邊真悠子
- 季語
- 万緑
- 季節
- 三夏
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 言葉の経済効率がとても良く、的確にイメージを伝えてくれる一句です。
上五でいきなりあらわれる「合唱曲」の一語で、風に乗って響く音や合唱に参加する人々の存在がわかります。大きく開かれる合唱の口。
緑を揺らす万緑の風は、大きく開いた口の奥歯にまで届きます。「万緑」の持つエネルギーが句の中心にしっかり据わりました。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:第17回はぴかちゃん歯いく大賞 はぴか大賞)
鳥と月しづかに跨ぐ泉かな 上原淳子
- 季語
- 泉
- 季節
- 三夏
- 分類
- 地理
- 鑑賞
- 季語「泉」の本質をシンプルな言葉の選択で表現した一句。心が澄んでいくような作品です。
森の奥でひっそりと何百年も湧き続ける泉を思いました。恋を語る鳥たち、縄張りを争う鳥たち、子育てをする鳥たちが集う泉。欠けてゆく月、満ちてゆく月、朧な月、暑くて赤い月、清澄たる月、寒気に青む月、さまざまな月がその水面をさざめかせる泉。
擬人化はややもすると陳腐になりがちですが、この句の「跨ぐ」は、鳥と月の悠久なる営みを抽象化して見事。常套的になりがちな形容動詞「しづかに」が、「鳥」「月」「泉」の表情を支えます。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2021年5月兼題分)
かはせみの飛ぶとききゆつとちぢむ空 どかてい
- 季語
- 翡翠
- 季節
- 三夏
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 鳥の季語を描く場合、似たような別の鳥に置き換えても句として成立してしまうことが往々にしてあります。この句も念のため脳内にて、様々な鳥の季語に置き換えてみましたが、いやいややはりこれは「かはせみ」以外では成立しないと、納得させられました。
「かはせみ」の出現はいつも突然です。そんなに遠くないところからいきなり飛んでくる。「かはせみ」のあの速さは、波動として「空」に伝わり、空気が「きゆつ」と引き締まるのかもしれません。それを「きゆつとちぢむ」と表現したのです。
さらに、あの色。太陽によって色が変化する「構造色」というものだそうですが、独特の青が視界に入ったとたん、眼球も「きゆつ」と縮むかのようです。私たちの心も「きゆつ」と動きます。今の、カワセミだよね?!と、まぶたの裏に残る色を確かめる。「かはせみ」の青は、一瞬「ききゆつ」と縮んだ「空」の残像のようでもあります。一句の調べもまた、スローモーションの映像のような味わいです。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2020年5月14日週分)
初夏の手押しポンプの水甘し こりのらはしに
- 季語
- 初夏
- 季節
- 初夏
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- 映像を持たない季語「初夏」を味覚で表現した一句です。「手押しポンプ」というモノが、読者の脳内にて、この句の「水」の味を見事に再現させます。
この句の場合は「初夏や」ではなく、「初夏の手押しポンプ」とすることで、条件づけが成立。一年の中でも「初夏の手押しポンプの水」こそが甘いのだよ、という意味になります。このあたりの叙述もよく考えられている作品ですね。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2015年4月23日週分)
隕石に黒き凸凹風薫る 三重野とりとり
- 季語
- 風薫る
- 季節
- 三夏
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 手にした「隕石」にある「黒き凸凹」。宇宙空間から落ちてきたその石も、今は美しい地球の薫風の中にあります。
「隕石」の黒と季語「風薫る」の緑の印象が、鮮やかな対比となっている一句です。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2018年4月兼題分)
頬白と共の朝餉や神の邦 藻川亭河童
- 季語
- 頬白
- 季節
- 晩春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 「神の邦」とはどんな場所でしょう。神がそこにいるかのような美しい場所でしょうか。南の楽園のような島でもいいし、山に囲まれた神殿古墳を思ってもいいでしょう。
「頬白」は囀りが美しいことから四名鳥の一つに数えられているそうですが、「頬白」も人も同じ生かされる者として、美しい祈りを捧げてから、静かな「朝餉」が始まるのです。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年3月28日週分)
春夕焼小壜の中の子の乳歯 宮下嘉納子
- 季語
- 春夕焼
- 季節
- 三春
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 我が子の「乳歯」が初めて抜けた日、捨てるにはあまりに愛しく、「小壜」に入れておいたのでしょう。
「乳歯」の入った「小壜」は、「春夕焼」の淡く優しい光をたたえて、作者の手の中にあります。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:第10回はぴかちゃん歯いく大賞 一般の部優秀賞)
月は膿み人魚は匂う春の潮 三重丸
- 季語
- 春の潮
- 季節
- 三春
- 分類
- 地理
- 鑑賞
- ぐっと虚に踏み込んだ一句です。「春の潮」の生暖かい臭さは、「月」をぼったりと膿ませ「人魚」をなまめかしく匂わせるというのです。
「春の海」でもなく「春の波」でもない、「春の潮」だから表現できる世界を生み出しています。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2018年2月8日週分)
石室を少し開けおくこと朧 磯野昭仁
- 季語
- 朧
- 季節
- 三春
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 薄暗い石室の空気は、ぬるく湿っています。黴の臭いもします。石室の真ん中には石棺。四方には、月や星や人や獣が描かれた壁画。かつてここに葬られた人がいて、その死を巡る人々の嘆きや憤りや思惑が満ちていた石室。そんな石室を「少し開けおくこと」とは、どういう意味なのでしょう。湿気を逃がすためにしばし開けておくのか。風を入れ黴臭を弱めてから、入ろうとしているのか。いや、ひょっとするとこの石室から「朧」がゆっくりと噴き出しているのかもしれない、と、そんな思いに囚われました。「石室」とは古代につながる隧道。古代と現代の気脈が「朧」という現象となったか……と、そんな妄想が、我が心を生ぬるく占拠していきました。黴の臭いが、鼻腔につんと蘇ってきました。
(鑑賞:夏井いつき)
(出典:俳句生活 ~よ句もわる句も~ 2022年4月兼題分)