夏井&カンパニー読本
■コーナー名変更のお知らせ
当コーナー「夏井いつき読本」の名称を2023年12月31日(日)をもちまして変更する運びとなりました。
2024年1月8日(月)より「夏井&カンパニー読本」として投稿募集を開始します。
鑑賞文募集中。詳細は下記専用フォームから
夏井&カンパニー読本 投稿フォームはこちら海女組合理事長再婚てふ噂 夏井いつき
- 季語
- 海女
- 季節
- 晩春
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 発端はミチヨであった。携帯電話に質問を浴びせつつ菜箸をそよがせて三軒隣へ駆け込み、組合理事長が村役場で婚姻届を貰い受けたことをリークするやいなや放射状に情報は拡散し、「そういやぁこの前ん日曜に理事長が見慣れんひらひらした女と上区ん裏参道歩いておったわぁ」などと横糸も次々に補強され、加速度的に可能性は事実と成った。
アシンメトリーなパーマをなびかせ秋色の口紅を引いて春の磯辺をイタリア製のパンプスでそぞろ歩いていた女の名は「マチコ」、ミチヨ以下桃色海女倶楽部総勢六名は今、理事長が回すドアノブをひたと凝視している。
(鑑賞:遠音)
(出典:『絶滅危急季語辞典』)
抱きしめてもらへぬ春の魚では 夏井いつき
- 季語
- 春
- 季節
- 三春
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- 春の夜、その人は湖心の小舟に平和な微睡を愉しんでいる。岸に佇む私は、悲しいかな私のままでは彼に触れる手段を持たない。けれど触れたい、抱きしめてもらいたい。妄執と化したジレンマが生む幻の大魚。
大魚はぬるりと水に入る。音も無く近づく彼女の波に揺れる小舟。恋人は只ならぬ揺れに目を覚まし舟べりを覗き込む。見たのは水深を緩やかに迫る恐ろしい大魚の影。
私よ、あなた、声にならない熱情は大きな波と化し小舟をさらに揺らす。抱きしめてもらいたい一心でここまで来たのに、愛しい人は恐れおののくばかり。このまま化身の代償として、独り湖の底へ沈んでゆく運命なのか。
春夜の恋情が生んだ、悲しくも生臭いパラドックス。
(鑑賞:めいおう星)
(出典:伊月集『龍』)
桜貝ビスコの箱に入れてある 夏井いつき
- 季語
- 桜貝
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- ビスコの箱、という所から想像が膨らんで行く。
桜貝を拾い集めはしたが、それが目的の外出ではなかったので適当な入れ物が無く、たまたま持っていたビスコの空き箱に入れたのだろう。
そうすると、海へ来たのもたまたま。
きっと春の日差しの暖かさに誘われて外出し、潮の香りに誘われて海へ来たのだろう。
そして桜貝の可愛らしさに心惹かれて拾い集める。
その時その時の気持ちの赴くままに行動する人の、自由な心の動きが心地好い。
「入れてある」もポイントで、桜貝を拾っている最中の「入れている」ではなく、もう拾い終わった「入れてある」
自由な心の持ち主は、ビスコの箱をカラカラ鳴らしながら、次はどこへ向かっているのだろうか。
(鑑賞:立志)
(出典:『伊月集 龍』)
つながれぬ手は垂れ末黒野の太陽 夏井いつき
- 季語
- 末黒野
- 季節
- 初春
- 分類
- 地理
- 鑑賞
- つながれぬ手とは別離を意味するのだろう。大事な人が消えてしまった。つないでいた手が離れてしまった。後を追うこともできず、その手は垂れたままだ。焼き払われ黒く焦げた野に呆然と立ち尽くす姿が見える。喪失感と孤独感がひしひしと伝わってくる。
しかし、この句の凄さはそこに終わらないことだ。ぽつねんと焦土に立ちながらも、顔を上げて、目は「太陽という希望」を見据えているのである。別離の哀しみや辛さを体験した者は垂れた手に己を重ね、やがて、太陽に伸ばそうとしている手に心を揺さぶられる。感動の一句。
(鑑賞:柝の音)
(出典:伊月集 梟)
卵色の月のばぼんと暖かし 夏井いつき
- 季語
- 暖か
- 季節
- 三春
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- 記憶の中の卵色の月は、大きくて低い位置にある。遠く天井にある神々しい銀の月ではない。卵色の月はどこかぬくぬくと暖かく手が届きそうな月である。手で包めそうな大きくて黄色の暖かい月。手で包んでいたら何かが産まれてきそうである。夜空に浮かぶ卵子なのかもしれない。
ばぼんとは、何なのか?何かが産まれてくる音なのか。月の弾む音なのか。弾んで弾んで母の中に入る音なのか。生命の育みの多い春。ばぼんと産まれて大きく育つのである。
(鑑賞:さとう菓子)
(出典:俳句新聞いつき組2号 放歌高吟)
ももいろの錠剤バレンタインの日 夏井いつき
- 季語
- バレンタインデー
- 季節
- 初春
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 単なる薬、面倒な嫌な薬も、それがバレンタインの日でももいろの錠剤であれば、なんだか愛らしく楽しい気分になってくる。
ただ「物」と「季語」を置いただけで世界を創り出せる、二物衝撃。まさに俳句という形式でこそ伝わるささやかな感動があるのだと、あらためて思わされる。
ありふれた日常に、さりげなく転がっている様々な物には、それぞれこんな風に出会うべき季語があるのかもしれない。
「商業主義的イベント」でもいいではないか。バレンタインの日にこんな発見をする作者はきっと、少女のように笑う人だ。
(鑑賞:香野さとみ)
(出典:『伊月集 龍』)
鳴く亀のひとつひとつをうらがへす 夏井いつき
- 季語
- 亀鳴く
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 亀を打つ男がいる。
白鳥のいるT池には餌台が一枚水に浮んでいる。担当者が餌をまくと白鳥ばかりか外来種のミドリガメ達も泳いで寄ってくる。台に前脚を掛け貪欲に首を伸ばすと、担当の男は亀めがけて棒を振り下ろす。何度も何度も、その打擲は息を呑むほど激しい。
さて掲句だが、牧歌的な気分に満ちている。「鳴く亀」が空想の季語なら「ひとつひとつをうらがへす」のも空想の行為だ。仰向けで困っている亀の可愛らしさ。裏返し放題に亀の居る楽しさ。ひらがなの柔らかさが童心を誘う。日本固有種の温和なカメでなければこの季語もこの句の味わいも成立しない。日本に日本の亀がいる幸せを改めて思う。
(鑑賞:岡田 三月)
(出典:『絶滅寸前季語辞典』)
東京の春のかもめを数ふるよ 夏井いつき
- 季語
- 春のかもめ
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 私は「春のかもめ」が歳時記に掲載されているのを見たことがない。「冬鴎」は載っている。インターネットで検索すると、先発・後発の「春鴎」の句はあるようだ。春のかもめが大きく飛んでいる。東京湾だろうか。「かもめ」の平仮名表記に大都会に居る感傷的な思いが読み取れるが、眼目は中七ではなく「数ふるよ」の「よ」である。「数へけり」とすることもできるが、あえて「よ」で詠嘆したのは、数えている今を生きている私がここにいる、ことを強く打ち出している。風景の中で動物を数えるということは、多かれ少なかれその数に意味性を見いだしているということだ。この句では自身とかもめが拮抗し、ぶつかりあっている。かもめも夏井も強い。
(鑑賞:黒岩徳将)
(出典:『伊月集 龍』)
荒星の匂ひのセロリ齧りたる 夏井いつき
- 季語
- セロリ
- 季節
- 三冬
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 「問題」セロリ嫌い派に好きと言わせる方法を考えなさい。
「考察1」セロリの形から「齧る」としてみる。兎が生でコリコリ食べている感じがしてかわいい。だが、嫌い派は「青臭い生なんてありえない」を盾に、対抗してくるだろう。
「考察2」イメージ戦略。「荒星の匂いのセロリ」としてみる。木枯しの夜に強い光を放つ星、冬の凛とした感じがセロリのあの苦味と通じる。
「考察3」完了の助動詞「たり」の連体形。文末にある事により、余韻が生まれる。齧った瞬間、荒星の味が口の中に広がるようだ。
「結論」荒星の強い光を浴びたセロリなら、コリっと齧ると、冬の凛とした爽やかさが口に広がるとなる。これならば、好きになれるだろう。
(鑑賞:天野姫城)
(出典:『伊月集 龍』)
子を生まぬこと冬董愛さぬこと 夏井いつき
- 季語
- 冬菫
- 季節
- 晩冬
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 二つの禁止事項のように並ぶ子を生まぬことと冬菫を愛さぬこと。
冬菫は可憐でたいていの人が愛さずにはいられない。愛さないようにするためには痛みが伴う。なんとなく妊娠しても産めない立場の人を思った。不倫とか出産によって母体が危ないとか。(作者がそうだというわけではない、念のため)私の周りには子供を持たない夫婦も多くてそれぞれ幸せそうだから、子供を持つかどうかはそのカップルの自由な選択だとは思う。授からないこともあるし、はなから子供は作らないとしているケースもある。それを詮索するのも余計なお世話だと思う。
母体に宿った胎児のエコー画像は冬菫のようでなんだか切ない。でもどうしても産めない時も人にはある。
(鑑賞:矢野リンド)
(出典:『伊月集 梟』)
さきすさぶさざんかさざんかかなしむな 夏井いつき
- 季語
- 山茶花
- 季節
- 初冬
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- ひらがなとさ行の音が楽しい。だが「かなしむな」という。たった一語がこの句の世界へ深く分け入るきっかけをくれる。なぜこの言葉が出てくるのだろう。ただ咲くのではない。「さきすさぶ」。この、「すさぶ」に原因があるように思える。
「すさぶ」という言葉は、幅広い意味を持つ。荒れる様、気の向くまま遊ぶ様、ある方向へ向かう様、そして勢い尽き衰える様。
繚乱の山茶花。色彩。咲ききっては花弁が落ちる。茶色く汚れていく。そこへ新たな花が落ちる。その哀れは嘆くべきものではない。それでも人の心の澱を舞い上げるだけの力を持った場面だ。自分の内にあるかなしみがはっと舞い上がる。まだ樹を彩る花の上には冬の青空が広がる。
(鑑賞:家藤正人)
(出典:俳句新聞いつき組9号・2017年1月巻頭)
湯冷してぞつとするほど父に似る 夏井いつき
- 季語
- 湯ざめ
- 季節
- 三冬
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 語順がいい。
頭から読んでいくと、風呂あがりに湯冷してしまい、ぞっとするほど体が冷えたのかと思いきや、鏡に写る湯冷した自分の姿が父親に似ていたという展開に驚く。
言葉通りに読めば作者は、父親がぞっとするほど嫌いなのかと思えるのだが、そうではなく、ぞっとするほど美しいという雰囲気がある。
何故か?
「湯冷して」は、「湯冷し(連用形)」+「て(接続助詞)」なのだが、この「て」が曲者。「湯冷し、それから」となる。
もしかしたら、父親は亡くなっており、湯冷したその瞬間だけ、父親に会えるのなら、湯冷もいとわない。もしくは、そんな自分が、ぞっとするほど愛おしいのかも。
これは、親愛なるファザコン句だ。
(鑑賞:天野姫城)
(出典:『伊月集 龍』)
母刀自のいよよ猿めくお元日 夏井いつき
- 季語
- 元日
- 季節
- 新年
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- この句を読むたび亡くなった姑のことを思い出す。姑は常に理想の高い人だった。いつも何か深く考えているような人だった。脳梗塞を患ってからの姑は、後遺症で体が不自由になったが、心持は穏やかになった。表情も動きもあどけなく、私が守ってあげなければならないという気持ちになった。
この句の「母刀自」という言葉に大いなる愛を感じる。かつて優しく厳しく逞しかった母が、今は猿のように拙い存在になってしまった。その母と無事に新年を迎えることができるめでたさ。嬉しくもあり哀しくもあり。元日の感慨はこんなところにもある。
(鑑賞:都築まとむ)
(出典:『100年俳句計画2013年4月号(No.185)』「放歌高吟」)
目の端に吾を入れたる冬の蠅 夏井いつき
- 季語
- 冬の蠅
- 季節
- 三冬
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- それはビーズ玉ほどの極小のせかい、無機質で緻密な、けれど誰にも発見されることのなかったこの世界の片隅の複眼、その端に巨大な私がちろりと映り込みはじめた時、世界はふいに捻じれ、瞬く間に反転して、まなこはぐにゃりと世界を覆い始め、いつしか縮んでしまった私の意識も、反転の世界へと気づけば囚われていた。
幼子の無造作な平手打ちにもあっけなく息絶えてしまいそうな、冬の蠅。寿命と寒気に死期を告げられているそのいのちのまなざしが、世界を侵食し、私の立ち位置を凹んだ鏡のように歪曲しながらたしかに映し出している。私を、見つけた。
(鑑賞:遠音)
おそろしきこと言ひにゆく十二月 夏井いつき
- 季語
- 十二月
- 季節
- 仲冬
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- そんな恐い顔してどうしたんだ、人でも殺してきたみたいだぞ……え、冗談だよ、来月には赤ちゃん産まれるのに変な事言ってゴメンゴメン、それでどうしたんだ……何言ってんだお前、赤ちゃんが俺たちの子じゃないって、何言ってんだ……大体俺たちってお前が産むんじゃないか、何訳のわかんない事言ってるんだ、どういうことだよ…………
あ、夢か、とんでもないおそろしい夢だった。この事は一生、絶対黙ってるはずなのに話す夢を見るなんて。あー、きっと十二月になったせいだわ。日本中馬鹿みたいに明るく、悩み事がある人なんてどこにもいないみたいな。本当に嫌いだわ、十二月。
(鑑賞:24516)
(出典:『伊月集 龍』)