夏井いつき読本
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夏井いつき読本 投稿フォームはこちら水に根のひろがる夜の時鳥 夏井いつき
- 季語
- 時鳥
- 季節
- 三夏
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 本能とは、個体または種族を維持するために生物が生まれつき持っている性質である。しかし、人が社会の中で生きるには本能は見せないほうが理知的で上品だ。だから人は本能を隠そうと努力する。本能をあからさまにしているものに出会うとドキッとする。
たとえば、土の中に隠すべき根を水の中に大っぴらに広げている水栽培の植物。たとえば、他の鳥が囀ることのない夜に大きな鳴き声で囀る時鳥。
そんなに必死な姿を見せてしまっていいのか。恥ずかしくないのか。野暮じゃないか。
いや、本当は己の本能に忠実な姿が、うらやましいのかもしれない。
(鑑賞:片野瑞木)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
ガーベラは立つて便器はまつ白だ 夏井いつき
- 季語
- ガーベラ
- 季節
- 三夏
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- この違和感はなんだろう。
とても清潔なのに、どこか居心地が悪い、そんな空間。
ホテルの客室用トイレを思った。照明の下、ガラスの一輪挿し。赤いガーベラの鮮やかさよ。まぶしいほどの便器の白さよ。(この句のガーベラは、赤がふさわしく思う。)
「ガーベラは立つて」で、鮮やかな花に加えて、すーっと長い茎が見えてくる。便器の真っ白に映えるガーベラは、どこか人工的な美しさをたたえている。
その整えられた隙の無さに、ちょっと怯んでいるような、ちょっと面白がっているような。
散文的で放り投げたような文体が効いている。
(鑑賞:梅うめ子)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
きのうの夕虹だつたこんぺいとういかが 夏井いつき
- 季語
- 虹
- 季節
- 三夏
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 夕立のあと大きな虹が立ち、友人たちと見上げていた。翌日、その中のひとりが金平糖を持ってきた。仲間から歓声が上がる。
虹も金平糖も色彩豊か。天にある虹。天にある星の形の金平糖。虹からひょいとつまんできたような金平糖である。
金平糖を口にする度、甘さと共に美しい虹を見た感動と一緒に見た友人たちを思い出すのであろう。
「こんぺいとう」のひらがな表記は、作者の子どもの頃を連想させるためであるかもしれない。
虹と金平糖から色彩の華やかさが浮ぶが、季語が「夕虹」であるため、牧歌的なニュアンスも感じる。
(鑑賞:一久恵)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
夏の雨描くための筆洗いけり 夏井いつき
- 季語
- 夏の雨
- 季節
- 三夏
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 夏の雨を描こうとしています。直前まで描いていた筆をその為に洗ったという所に目がいきました。とても繊細な感覚だと思いました。
洗うのですから、筆をまず水に浸すわけです。色だけではなく、筆にこもる温度までも落としているような感じがしました。
雨によって涼しさをもたらした肌感覚の延長線上として、筆にもまた涼しさを含ませ、あらためて夏の雨を描きはじめるのです。
(鑑賞:北藤詩旦)
(出典:句集『伊月集 梟』)
夜は伏せる鏡に響くほととぎす 夏井いつき
- 季語
- ほととぎす
- 季節
- 三夏
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 求愛のため夜通し鳴くこともある時鳥。様々なイメージを併せ持つ季語で、傍題も多い。鏡の中に響いているのはどんな声か。
夜の鏡は魔物の通り道。伏せて寝た方がよいと聞いたことがある。それでも私は暗闇にその鏡を手に取る。すると聞こえてくる雑多な呟き。己を投影すれば、それらの声に時に癒され、時に傷つく。
そろそろ魔物がやってくる。もう寝なくては。この鏡に吸い込まれてしまう前に。私はスクロールする指を止め、再びそれを伏せた。
夜の帳の向こうにほととぎすが鳴いている。
(鑑賞:えむさい)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
緑さす躰てふ豊かな器 夏井いつき
- 季語
- 緑さす
- 季節
- 初夏
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- ぱっと見てああなんて素敵な表現だろうと思いました。躰てふ豊かな器、素晴らしい句またがりですね。
豊かな器という躰は痩せっぽちでは無くふっくらとした印象を与えるだけではなく、豊かな経験を積んだ躰という風にも感じられます。
ふっくらとした豊かな経験を積んだ躰に緑さす、なんと柔らかな緑だろうと考えるのです。
新緑なのでしょうか?若い緑が豊かな躰に差し伸べるのは小さな力かもしれませんがどうぞいらっしゃいと懐深く包み込んでくれるのではないでしょうか。
(鑑賞:猫柳鈴音)
(出典:句集『 伊月集 鶴』 )
春宵のきつねうどんを吸ふぷちゆん 夏井いつき
- 季語
- 春宵
- 季節
- 三春
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- 離乳食からうどんを身近に育ってきた私の心を鷲掴みしたオノマトペ「ぷちゆん」。
春宵にきつねうどんを食べている人物とはどんな人だろうか。
一本のうどんをすすり終えるリアルな音のかわいらしさから、ぷくぷくとした頬の幼児を思い浮かべた。季節の変わり目で熱を出した子どもへ出汁がじゅわっと染み込んだお揚げと食べやすいように短く切ったうどんを母がふぅふぅして食べさせている。力いっぱいうどんをすする子どもの「ぷちゆん」、うどんだしが飛び散るくらい元気になった証拠。
この春の夜は親子の大切な時間を優しく包み込んでくれる「春宵」である。
(鑑賞:織部なつめ)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
動く雲だけが子馬の目に映る 夏井いつき
- 季語
- 子馬
- 季節
- 晩春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 「動く」という言葉を使っているにもかかわらず、なんという静謐な句だろう。
馬は350度の広い視界をもっている。生まれて間もない好奇の輝きに満ちあふれた黒い瞳には、仲間の馬や、飼育員や、揺れる草花や、柵に囲まれた牧場の中の様々なものが映っているにちがいない。
では、なぜ「動く雲だけ」なのか。それは雲が最も遠くまで行けるからである。
目に映っているから視ているとは限らない。子馬はまだ知らないのだろう。しかし、子馬の深層の無意識が、筋肉の隅々に遍く遺伝子が、本当は自分があの雲を追い抜き、地平線の向こうまで行ける力があることを知っているのだ。
(鑑賞:彼方ひらく)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
青き踏めマスクを鳩として放て 夏井いつき
- 季語
- 青き踏む
- 季節
- 晩春
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- コロナ禍に詠まれた、後世に残る一句である。
上五の季語「青き踏む」を命令形にしたことへの賛否については、作者である夏井氏も言及しているが、仮にこの部分を本来の「青き踏む」に置き換えて読むとどうであろうか。
元句の持つ、痛いほどの切望感、強い意志、読み手の心に訴えかける力、全てがトーンダウンして台無しになるのがよくわかる。
「踏め」「放て」と、畳み掛けるような二つの命令形があってこそ、読み手の心深くに届くのである。
先が読めない中の一筋の光のように、この句に励まされる人は多い。たった十七音の底知れぬ力を感じる一句である。
(鑑賞:陽光)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
春愁や長き海岸線に波 夏井いつき
- 季語
- 春愁
- 季節
- 三春
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 歳時記には「春に感じる物憂い思い、春だからこそ感じるそこはかとない愁い、哀しみ」――といったことが書かれている。
そうなのだ。誰もがこの思いに心がざわめくのだ。しかもオーストラリアの20分の1の国土面積に対して、海岸線の長さはそれよりも長く、打ち寄せる波に影響を受ける人々のなんと多いことか。
この国はいつからか「春愁」の国となったようだ。
(鑑賞:吉野川)
(出典:『新版 角川俳句大歳時記 春』)
動く雲だけが子馬の目に映る 夏井いつき
- 季語
- 子馬
- 季節
- 晩春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 子馬の目に映っているのは「動く雲」。子馬には雲が自ら動いているように見えているのかもしれない。「動く雲」から吹いてくる風が、まだ柔らかい鬣を靡かせる。
雲を追って駆けだしそうな躍動感のある一句だが、私は一抹の寂しさを感じた。
「映る」という動詞は、その目を見ている自分の姿を描き出す。仔ではなく「子」の表記、それは親の眼差しだ。そして「動く雲だけ」という把握に、自分の姿は映っていないことを受け止めた。
そう感じてしまうのは、私が高校受験を控えた子をもつ親になったからだろう。
でも、そんな子馬の目が愛おしいのだ。この句を読むたび、輝く未来の夏野に想いを馳せる。
(鑑賞:えむさい)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
プロテイン色に紋白蝶の翅 夏井いつき
- 季語
- 紋白蝶
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 句に書かれているのは紋白蝶の翅のことのみ。強いて言えば、「プロテイン色」という珍しい言葉が何かを暗示させている。
が、よく見ると、この句の肝は「に」だと気付く。「の」だと翅の色の描写をした句にしかならないが、「に」により動きが見えてくる。
「プロテイン」から、それはバタフライ泳法に思えてくる。蝶は英訳するとバタフライ。「に」があれば「動く」等の動詞が最後に無くてもよしという判断。
紋白蝶を、単なる白ではない乳白色のような、なにか密度の濃い白という色で捉えようとする作者。春はいろんなスタートの季節。紋白蝶のように健気に、この春を有意義に飛び立とう。
(鑑賞:高橋寅次)
(出典:女性自身 『パパイアから人生』第25回)
芽柳に水せはしなくせはしなく 夏井いつき
- 季語
- 芽柳
- 季節
- 仲春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 芽吹いたばかりの柳の初々しい緑。
その傍らの川は、ひとときも揺蕩うことなく淀むことなく、急くように流れてゆく。
芽柳の小さな命を寿ぐかのように、きらきらと輝きながら。
芽柳とともに春の喜びを歌うように、生き生きと快い音を立てながら。
春の明るい日差しの中で。
(鑑賞:ひそか)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
父に似た男と暮らす蜆汁 夏井いつき
- 季語
- 蜆汁
- 季節
- 三春
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 「いただきます」
不思議そうな顔して平成生まれのこの男は蜆の味噌汁を持ち上げた。
「家で貝の味噌汁とか初めてかも」
ちゃんと砂抜きをして火も通し過ぎないよう気をつけた。そんな手間暇かけた味噌汁を何事もない顔で飲んでいく。
「どう?感想とかないの?」
「別に。普通」
ほんと食に興味のない男だ。だけど最後、蜆から身を取り出し始めたからつい笑ってしまった。
「蜆の身、食べるんだ」
「え?作ってくれたんだから全部食べるでしょ、普通」
私は面倒臭くて食べてないのに。この男こういう所ほんとちゃんとしている。取り出した身は全部一気に口の中へ放りこんだ。
「ごちそうさまでした」
(鑑賞:24516)
(出典:句集『伊月集 龍』)
さへずりのなかの誇らかなるさへずり 夏井いつき
- 季語
- 囀
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 野生の小鳥たちは寿命も数年と短いが、成長も早く、春に一斉に繁殖期に入る。街に溢れ出てくる鳴き声は、巣作りのできる森林に近づけばさらに密度を増していく。鳥たちはさながら雑踏の中で恋愛し、プロポーズするのである。しかしどれだけ囀っても、雄たちに虚しい日々はあるだろう。
囀りには大きく分けて、雌たちにアピールする声と、他の雄に対して縄張りを主張する声がある。掲句の囀りは、そのどちらでもないかもしれない。
求愛された雌が、雄を認める瞬間は必ずあるはずだ。雄が苦難の末に伴侶を得たときの歓び、彼が最も生命を謳歌する「誇らかなるさへずり」が、きっとこの瞬間だけ他の囀りを凌駕するにちがいない。
(鑑賞:彼方ひらく)
(出典:句集『伊月集 鶴』)