夏井いつき読本
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夏井いつき読本 投稿フォームはこちら冷房ぬるし銃めく新型体温計 夏井いつき
- 季語
- 冷房
- 季節
- 晩夏
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 子供の頃の体温計は水銀式だった。いつの頃からか電子体温計となり、コロナ禍で一気に広まったのが「銃めく新型体温計」。
新型体温計が従来の物と異なるのは、その形状や非接触であることに加えて体温を計測する速さ。だが、瞬時に表示される体温を私は信じられず、数回ピッとやっていた。
コロナ禍、建物の入り口でピッとやられ、やはり時々繰り返しやられることがある。おでこや手首など部位を変えてやられることもある。
本当にこんな玩具の拳銃のようなモノで瞬時に体温が分かるのか? 違和感が「冷房ぬるし」で表現されている。
違和感にも慣れてきた2022年の夏、「冷房」は「ぬるし」のままか……?
(鑑賞:高橋寅次)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
日傘巻き締むれば凶器めける黒 夏井いつき
- 季語
- 日傘
- 季節
- 三夏
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 「締むれば」というのだから、きりきりときつく細く巻いたのだろう。
丁寧に巻いた日傘の黒い色。今どき、黒い日傘など珍しくもない。むしろ定番だ。普段は気にもしていない。
が、今日はその黒を「凶器」めいていると思ったのだ。今から誰かに会うのか、それとも独りになるのか。
心の翳りが、ありふれた黒日傘を凶器に見せるのだ。
(鑑賞:RUSTY=HISOKA)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
二百三高地に外すサングラス 夏井いつき
- 季語
- サングラス
- 季節
- 三夏
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 「二百三高地」とは、日露戦争で激戦地のひとつとなった中国の丘陵のこと。長きにわたり外国人の立ち入りが禁止されていた場所でもある。
このサングラスの人は、おそらく立ち入り禁止が解けたあとに訪れた観光客であろう。サングラスからのイメージではあるが、(日本人を含む)外国人ではないかと思う。
この場所に外国人が、立ち入ることができるようになったということは、平和になったということでもある。
ただ、絶対に忘れてはならないのは、ここで戦争があり、多くの命が失われたということ。
そのためにも、サングラスを外し、哀悼の意を表すのだ。
(鑑賞:天野姫城)
(出典:句集『伊月集 梟』)
ががんぼの硝子にぶち当たる無音 夏井いつき
- 季語
- ががんぼ
- 季節
- 三夏
- 分類
- どう
- 鑑賞
- ががんぼは双翅目ガガンボ科の昆虫。その形は蚊に似ていて、蚊よりふたまわりほど大きい。
しかし、似ているのは形だけ。ががんぼは人の肌を刺しにくることはない。羽音も聞こえない。蚊の俊敏な動きと比べて、ががんぼの動きはなんともぎこちない。細長い脚を持て余して困っているような動きだ。
そこらをフラフラと飛んでいると思ったら、窓硝子にぶつかった。音も立たない衝突だが、ががんぼの脚が一本取れてしまった。ががんぼの脚はちょっとしたことで、すぐに取れる。脚が取れたことに気がついているのかいないのか、ががんぼはそのままフラフラとどこかへ飛んで行ってしまった。
(鑑賞:片野瑞木)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
水に根のひろがる夜の時鳥 夏井いつき
- 季語
- 時鳥
- 季節
- 三夏
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- なぜ時鳥は夜鳴くのか?
図鑑には「繁殖期も終盤になるとメスを見つけられなかったオスは昼も夜も鳴く。」と書いてある。しかし実際には渡りの直後から夜鳴いているような気もするし、他の夏鳥も同じなので、時鳥が特に夜鳴く理由にはならない。
時鳥のもう一つの特徴はウグイスの巣に托卵するということ。
神様が特に時鳥に強い生命力を与えたということなのか。湖水に根を広げる木の生命力と共に24時間絶えることない自然の営みの強さがこの句で表現されている。
(鑑賞:長谷川ひろし)
(出典:『夏井いつきの「時鳥」の歳時記』)
時鳥とほくに砂州のくづれゆく 夏井いつき
- 季語
- 時鳥
- 季節
- 三夏
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 共感できる詩的表現に出会えることは俳句鑑賞一番の喜びに違いありません。そして作者が一句に託した思いや企みを深読みすることは別の楽しみとなります。
『伊月集 鶴』にその一句はありました。山から聞こえる時鳥と音もなく海に崩れる砂州の二物衝突。
しかし、作者には時鳥も砂州も「とほく」見えていません。在るのは時鳥の鳴き声のみ。旧仮名づかいで表現された感動の一句です。
時鳥は南からの渡鳥で、昼も夜も何かを訴えるように甲高く鳴きます。もしかしたら温暖化による海面上昇で沈む南の島々の危機を「テッペンカケタカ」と訴えているのかもしれません。
「時鳥」は嘴を精一杯広げて、天辺が欠けるその時を告げています。
(鑑賞:吉野川)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
抱けば我が胸蹴る赤子夏来る 夏井いつき
- 季語
- 夏来る
- 季節
- 初夏
- 分類
- 時候
- 鑑賞
- 胸を蹴るというのだから、この赤子はまだまだ小さい、生まれて間もない赤子だろう。腕で頭を支えてやると脚が私の前に来る。
何一つ自分ではできない、何も持っていない産まれたての赤子。そんな赤子が抱き上げた私の胸を蹴ってくるのだ。命の塊の力強さを胸に受け止める。胸は物理的に胸だが、心理的にも胸だ。
夏が来た。まだその気配はほんのかすかだけれど、この命の力強さとともに季節は移った。夏も赤子も、大きく強く私の胸を蹴るのだ。
(鑑賞:富山の露玉)
(出典:『夏井いつきの日々是肯日』)
ここでもないわここでもないわとつぶやく蝶 夏井いつき
- 季語
- 蝶
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 三日前に弟が突然亡くなった。
血栓が心臓の血管に詰まったらしい。
職場を定年退職して十日目だった。
友引を挟んでお通夜は今日、葬式は明日。
顔を見ると眠っているようにしか見えないのに
棺の中の弟の足はとても冷たかった。命を失った人の体というものは
あんなにもひんやりとしているのか。
足に触れて、組んだ手に触れて最後に額に触れた。
夕方になってお通夜の席で親族席の二列目に座りながら
私はちっとも涙が出てこない自分に少なからず驚いていた。
これはリアルな夢なんじゃないかなとぼんやり遺影の弟を見ながら。
ここでもないここでもないととまる所を探している蝶は
間違って体を抜け出した魂なのかもしれない。
(鑑賞:矢野リンド)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
パスカルと名付けし蜷の愁いかな 夏井いつき
- 季語
- 蜷
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 宇宙の中ではちっほけで弱い人間もその真実を認め愛を識れば偉大だと説いた「パスカル」。この国の水の在るあちこちで春に活発化、這った跡を道としてくっきり残していく「蜷」。棲む水が宇宙かもしれぬ「蜷」に「パスカルと名付け」た。聡明で細やかな「パスカル」が活躍し始めると、その心を痛める事も増える。
作者のこの感性に仰天し、読み返すうちなるほどと合点。この「蜷」は俳句の種まき行脚に精を出す作者自身なのだ。その道が長く残るほど様々な「愁い」も増えていく。殻の先がよく欠ける「蜷」は、身を削りつつ俳句普及活動を続けておられる作者だ。切ない。頭が下がる。名もなき「蜷」を目指す私の春の愛唱句のひとつ。
(鑑賞:明惟久里)
(出典:句集『伊月集 梟』)
薬箱の中に椿が入れてある 夏井いつき
- 季語
- 椿
- 季節
- 三春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 救急箱でなく薬箱と書かれると、プラスチック製のものではなくくすんだ色の木箱を思わせる。中七の「中に」まで読むと、薬箱は否応なく開かれる。木箱の質感、ピンの銀色の光、真っ白な綿といった色彩の対比、消毒液のツンとした匂い、あらゆる五感が刺激されるなか、下五まで読むと唐突に大きな一つの椿が現れる。
この句は「入れてある」としか述べていないので、いつ誰が何のために入れたのかは全く分からない。椿は恐ろしい赤色のまま静かにそこにある。恐らく実際は、誰かの悪戯程度のささやかな事なのだろう。
しかし、薬箱を開けた時に感じた、一瞬の美しい不可解さはこの句の中に永久に閉じ込められている。
(鑑賞:市川一夜)
(出典:句集『伊月集 梟』)
蝶の舌ふれたる水のびりびりす 夏井いつき
- 季語
- 蝶
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 蝶の口吻を舌と言ったところから既に詩が始まっている。
「蝶の舌」で切れて読むと水にふれたのは作者だけとも読めるが、蝶の舌がふれた水に作者もふれたのだろう。その水が「びりびりす」と言う。
まるで蝶の舌で通電されたようなオノマトペ。蝶の動きは確かに電気仕掛けのようにも見えるし、その羽の動きで微量に発電、帯電してるのかとも想像できる。
「水」を介して蝶を触感に捉え詩を完成した句だと思う。
(鑑賞:あまぶー)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
ミサイルをたんぽぽ弾で撃ち落とす 夏井いつき
- 季語
- たんぽぽ
- 季節
- 三春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 子供の頃の私は夢想していた。世界中の武器が草花に覆われ使い物にならなくなることを。生まれてからずっと戦争は悪いことだと信じていた。そして世界中の人達が戦争が無くなる未来を目指していると思っていた。
しかし、それは間違いだったのかもしれない。だって今大きな戦争がテレビ画面を通してではあるが目の前に繰り広げられているではないか。朝食を食べながらウクライナの子供達が死んでいくニュースを見ているこの現状はいったいなんなんだと思う。
戦争反対という私の声は小さく、飛んでいるミサイルを止めることはできそうにない。それでも言い続けなければいけないと思う。地上に咲いている蒲公英を摘んで空に向かって投げるように。
(鑑賞:矢野リンド)
(出典:句集 『伊月集 鶴』)
たんぽぽをさんざんぶってやりました 夏井いつき
- 季語
- たんぽぽ
- 季節
- 三春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 言葉だけを音で聞いてしまうとちょっと乱暴にも聞こえるものが、ひらがなで記されている。こどもの日記のような可愛らしさ。
ぶってやる!と軽く叩いたのだろうか。見つける度にモグラたたきでもしているように戯れていたのだろうか。
それとも。
なにか嫌な出来事があって初めはたんぽぽに向かってあたっていたのかもしれない。
小さなたんぽぽを次々はたいていたら、心が少し痛みふっと我に返る瞬間がくる。健気な花の姿にはっとする。段々嬉しい気分にもなってきて、愛しさも心に戻ってくる。
ごめんねと思いつつ日記のように、心を取り戻してくれた感謝も込めて綴ったのかもしれない。
(鑑賞:月萩つなぎ
(出典:句集 『伊月集 梟』)
いましがた消えたる朝の月も春 夏井いつき
- 季語
- 春の月
- 季節
- 三春
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 早朝、満月を少し過ぎたくらいの大きな月が山の端に沈んでいく。
霞が掛かった少しぼんやりとした春の月の姿である。ただその月はもう沈んでもう見えない。
早朝の出発時の慌ただしさを一時、忘れさせる景色に出会うことが出来た。
広大で途切れることのない自然の表情が表現されている。
(鑑賞:長谷川ひろし)
(出典:伊月庵通信 2020年夏号)
台本を丸める春愁も丸める 夏井いつき
- 季語
- 春愁
- 季節
- 三春
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 彼女は女優だ。
端正な顔だちに人気があり沢山のドラマで主演を演じ、今も撮影が始まるのをパイプ椅子で待っている。
だが、彼女の人気はあくまでその美貌にであり演技力としては低い評価を受けている事を彼女は知っている。演じる事はとても好きだ、自分なりに演技とは何か考え勉強もしている。でもそれは思っている程上手くいってないらしい。気にしていない訳ではない。だがそれ以上に嬉しいのだ。自分に主演女優をお願いしたいと来た事は確か、今はそれで充分。
それ以外の事は考えたくなくても考えなければならない日が近い未来に来るのだろう。
気づけば台本を掴む手に力が入っていた。
(鑑賞:24516)
(出典:句集『伊月集 梟』)