株式会社 夏井&カンパニー

百囀集

夏井いつきが市井の佳句を一句鑑賞

  • 晴天へ湯気の飛びつく蒸饅頭  ドクトルバンブー

    季語
    蒸饅頭
    季節
    三冬
    分類
    人事
    鑑賞
     まずは「晴天」の青を描き、「へ」という方向を示す助詞がポンと入ってからの展開が実に巧いですね。「湯気の飛びつく」という描写のなんと新鮮なことか。
     蒸し器の蓋を取った瞬間の映像がそのまま言葉になって飛び出してきたような鮮やかさです。
     最後に「蒸饅頭」という季語をもってくる語順も効果的な一句でした。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:ラジオ番組『夏井いつきの一句一遊』2014年11月22日放送分)
  • 橙あまねく清貧に甘んず  もね

    季語
    季節
    三冬
    分類
    植物
    鑑賞
    「橙」は秋の季語として載っている歳時記もありますが、本サイトの底本としている講談社版『新日本大歳時記』では冬の季語として採録されています。そして、大きな落とし穴となったのが、「橙飾る」が新年の季語であるという事実。「橙=代々」という駄洒落のような目出度さが、この果実を正月のお飾りとして定着させたため、「橙飾る」という季語も生まれたのでしょう。
    「あまねく」とは、形容詞「あまねし」の連用形から派生した副詞。【もれなくすべてに及んでいるさま。広く。一般に。】というのが辞書的意味です。さらに「清貧」とは【私欲をすてて行いが正しいために、貧しく生活が質素であること】ですから、おおよその意味は理解できますね。
     直訳をすれば、「橙」というものはどれもこれも「清貧」に甘んじている(ような果実であるよ)となるでしょうか。が、この句の魅力は、単に「橙」のことを「清貧」であると言ってのけるだけではなく、作者自身の生きざまをも匂わせている点でしょう。食用には適さず橙酢として使われることが多かった「橙」の清々しい酸味や地味なんだけれども地に足を付けて生きているような印象は、そのまま作者の佇まいとして想像されます。
     五七五を裏切った独特のリズムは、数えてみればちゃんと17音。美しい漢詩の一節のような調べも一句の味わいを引き立てます。「橙」という季語の本質をこんな形で表現し得た発想を、心から讃えたい作品です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年12月発表)
  • 注連縄に泡の飛びつく磯祠  宇多津花菜

    季語
    注連縄
    季節
    新年
    分類
    人事
    鑑賞
     季語「注連縄」から始まる一句。上五の助詞「に」が巧く機能していて、読み手は「注連縄に」何がどうしているのだろうと、「注連縄」をしげしげ眺めるような心持ちになります。助詞「に」が伏線となって出てくる中七の「泡」というモノ、「飛びつく」という複合動詞の勢い。これらの措辞が生き生きと映像を再生します。
     さらに巧いなあと唸ったのが「磯祠」の一語。仮に下五に「祠かな」と置いた場合と比較してみると、「磯」の一字の効果は歴然。「磯祠」によって中七の「泡」は、波の花の泡であることが分かり、その泡が飛ばされるほど風の強い日であることもわかります。新年を迎える「磯」の匂いも一気に立ち上がってくる見事な作品です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:ラジオ番組『夏井いつきの一句一遊』2016年12月18日放送分)
  • にきたつの月の凝りたる蜜柑かな  とおと

    季語
    蜜柑
    季節
    三冬
    分類
    植物
    鑑賞
     万葉集の額田王の歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で有名な「熟田津=にきたつ」は、伊予の国の三津浜あたりといわれております。地名を詠み込むことで、挨拶の心を表現。「にきたつ」に上ってくる「月」が凝ったかのような「蜜柑」であるよ、という措辞に美しい詩的断定があります。
     「凝る」には幾つかの意味がありますが、この場合は一カ所に寄り集まるの意。さらに「氷結する」の意味もあると知り、その詩的幻想も馨しく思いました。甘いだけの「蜜柑」ではなく、レモンイエローめいた程よい酸味を含んでいるのが「にきたつの月の凝りたる蜜柑」の味ではないかと、味覚的想像もふくらんできます。
      
    (鑑賞:夏井いつき9
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2017年12月11日掲載分)
  • 迎ふるに送るに父は葉牡丹まで  三重丸

    季語
    葉牡丹
    季節
    晩冬
    分類
    植物
    鑑賞
     「葉牡丹」は、どうしても好きになれない面妖なものだと感じる人もいれば、よく見ると目出度さや華やかさがあると言う人もおり、なかなか掴みきれない季語でしたが、この句に出会って、おおーまさにこの場面に似合う季語だ!と膝を打った次第です。
     前半の「迎ふるに送るに」という叙述が巧いですねえ。「迎えるにつけても送るにつけても」という意味がまず述べられるだけですが、後半の言葉によって具体的な映像が一気に引き出される、この構造に工夫があります。「迎えるにつけても送るにつけても」うちの「父」は「葉牡丹」の植わっている門のあたり「まで」なのです、という意味が脳に伝わったとたん、「父」の様子、ありありと立ち上がってきますね。
     迎えられ送られているのは大学生の娘でしょうか、はたまた孫たちの声と共に到着する息子一家でしょうか。戻ってくることを心待ちにしているのに、それを表情に出さない「父」。その「父」とは対象的にはしゃいで迎える「母」の姿も浮かんできます。
     水曜日のお便りコーナーに軌一さんが【葉牡丹は、ちょっと高齢の方の家の玄関によくあるものという気がします。ちょっと渋めの、お上品な、もっと言えばリッチな方の好みの植物ではないでしょうか】と書いてらっしゃいましたが、掲出句の「父」の住む家はまさにこういう感じなのでしょう。
     「迎ふる」日の父の表情、「送る」日の父の気持ち、それらを想像すればするほど、この複雑な思いを受け止め表現してくれる季語は「葉牡丹」以外に無いなあ!と感心します。切れの無い型で終わる構造もまた絶妙。「葉牡丹」というとこの句を思い出しそうです。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年12月分)
  • 産まれたての子馬のやうな竹馬よ  神戸鳥取

    季語
    竹馬
    季節
    三冬
    分類
    人事
    鑑賞
     季語「竹馬」とくれば、子どもが遊ぶ様子を描くか、郷愁の遊びとしてオトナの感慨にふけるか。そういう発想は想定内でしたが、こんな新鮮な比喩の句がでてくるとは思っていませんでした!しかもこの句、春の季語「子馬」を比喩として軽やかに使いこなしているのですから、大したものです。
     表現の可能性として「産まれたての子馬のやうに竹馬は」とすることも考えられますが、こうなると「竹馬」は飛び跳ねるようにカッカッと走っている感じですね。なぜそのような印象を与えるかというと、「やうに」は助動詞「やうだ」の連用形ですから、下五「竹馬は」の後に「跳ねる」「走る」などの動詞が隠れていると考えられるからです。
     それに対して掲出句「産まれたての子馬のやうな竹馬よ」の「やうな」は連体形ですから「竹馬」にそのままかかってきます。ですから句意のニュアンスとしては、匂い立つような青竹で出来た「竹馬」が今、出来上がったところで、これからこの「竹馬」で走り出すであろう子どもの様子などを想像している、という感じでしょう。父が我が子のために作ってやった「竹馬」を想像しました。
     さあ、「竹馬」が完成したぞ!「産まれたての子馬」みたいな「竹馬」だぞ!「生まれたての子馬」がすぐには立てないように、我が子もすぐに「竹馬」には乗れないだろうけれど、この「竹馬」を自在に乗り回し、走り回る日もすぐにやって来るに違いないよ!
     「父」という言葉を使って、「竹馬」を表現した句は沢山ありましたが、「父」という言葉を使わずして若い父の思いを伝えることができるのだなあと、一読清々しい気持ちになりました。
     念のための注釈ですが、「やうだ」は比況の意味を表す口語の助動詞です。(文語で比況の意味を表すのは「ごとし」「ごとくなり」という助動詞です。)つまり掲出句は、歴史的仮名遣いで表記した口語の句であることは、押さえておきましょう。口語の生き生きとした味わいが、一句の内容を引き立てていますね。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年12月分)
  • かれのさんスープをどうぞさむいでしょ  ひろしげ6さい

    季語
    枯野
    季節
    三冬
    分類
    地理
    鑑賞
     なんとも温かくて優しくて、ああ、実は「枯野」ってこんな存在だったのかもしれない、と心が癒やされます。読者である私自身が「スープをどうぞさむいでしょ」と労ってもらっているかのような、この手にスープカップを持たせてもらったような、ほんわりとした嬉しさ。
     こんな句を前に「かれの」と「さむい」は季重なりだ、なんて指摘に耳を貸す必要はないでしょう。小さな作家の小さな言葉に癒やされる十二月です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年12月分)
  • 寒林に入り爪痕が目の高さ  樫の木

    季語
    寒林
    季節
    三冬
    分類
    植物
    鑑賞
     これも先週の兼題「冬眠」と一緒に考えてたから手に入れられた素材かもしれないなとは思うんですけれども、爪の痕が目の高さにあるというこの生々しい爪痕が、寒林というものを匂い立たせてくれるっていうんでしょうかね、そういう効果を持っていたと思います。
     遠目で見ている寒林の中に自分が入り込んで行くと、目の高さに生々しい爪痕があるという。まるで作者と一緒に寒林の中に入っていったかのような現場証明のある一句でしたね。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:ラジオ番組『夏井いつきの一句一遊』2014年12月13日放送分)
  • 枯むぐら我等は笑ひつつ亡ぶ  くろやぎ

    季語
    枯葎
    季節
    三冬
    分類
    植物
    鑑賞
     「枯」という一字があるのにどこか温かみを感じさせる季語「枯葎」の不思議は、やはり「あたゝかな雨がふるなり枯葎」の力かもしれないなあと再確認した今週でしたが、いつまでも正岡子規のこの一句に引きずられているだけでは、私たち不甲斐ないですよね(笑)。子規の句の世界を裏切りつつ、さらに季語「枯葎」を掘り下げてゆく作品を私たちは産みだして行かねばなりません。そのヒントとなりそうな一句を、今週の「天」に推すことにします。
     「枯むぐら」と季語を提示したあとの「我等は笑ひつつ亡ぶ」というフレーズのなんと怖ろしい事実でしょう。「むぐら」がやがて枯れてゆくように、私たちも皆やがて死んでいきます。個体として「笑ひつつ亡ぶ」のは抗えない事実ですが、ひょっとすると「我等」という人類がいつか「笑ひつつ亡ぶ」日が来るかもしれません。
     一句を読み下したときの不穏な心持ちは、「枯むぐら」の蔓に引っかかっている幾万の顔を想像させます。「枯むぐら」の奥にある「我等」の顔の一つ一つが笑っている。なんと怖ろしい一句であることかと鳥肌が立ちます。
     子規句の「枯むぐら」に降る「あたゝかな雨」は、次なる再生を促し約束する雨です。「我等は笑ひつつ亡ぶ」を個体の死と読めば、子へと繋いでいく命のイメージを掬いとることもできます。が、平均寿命を八十年と仮定すれば、私たちは八十年をかけてゆっくりと死んでいく者たちです。「我等は笑ひつつ亡ぶ」という詩語が宣言する真実を、季語「枯むぐら」が優しく怖ろしく突きつけているようでもあります。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2013年11月分)
  • 磯鋼色なれば木枯の産道  海田

    季語
    木枯
    季節
    初冬
    分類
    天文
    鑑賞
     「鋼色(はがねいろ)なれば」の「なれば」という表現は、三つの解釈が可能です。確定条件(原因理由)で読むと「磯が鋼色なので」という意味になり、恒常条件なら「磯が鋼色のときはいつも」、偶然条件は「磯がたまたま鋼色で」という意味になります。
     どの意味で読むかを考えるのは、読み手の愉しみ。私は三つ目の偶然条件で読みました。今日の磯は何と寒々とした「鋼色」の光景なんだろう、まるで木枯が生まれてくる産道のような鋼色だよ、と偶然目にした光景に感嘆する作者がそこにいます。
     五七五の調べを外した破調のリズムですが、句の内容に似合った力強い響き。「木枯の産道」という詩語に強く惹かれた作品です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:ラジオ番組『夏井いつきの一句一遊』2015年12月19日放送分)
  • たらちねの月を砕いたやうな骨  あねご

    季語
    季節
    三秋
    分類
    天文
    鑑賞
     「たらちね」とは「母」の枕詞ですから、本来ならば「月」には掛かってこない言葉です。が、この句は、「たらちねの」の後に当然「母」がくるに違いないと読者が連想すると仮定し、「母」の一語を省略しているのです。大胆にもというか、掟破りであると断じるべきか、うっかりと真似はできない逸品であります。
     「たらたねの=母=月」という連想によって月が持つ母性めいたものを表現し、さらに「月を砕いたやうな」という比喩が「骨」に掛かってくるとわかった瞬間、これは「たらちねの」骨ではないか……という解釈を成立させます。読み終わった瞬間、深い溜息と共に、静かな哀しみがしくしくと喉元へと押し寄せてくる佳句です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:ラジオ番組『夏井いつきの一句一遊』2015年11月21日放送分)

  • 冬近し輪ゴムのやうな匂ひして  きとうじん

    季語
    冬近し
    季節
    晩秋
    分類
    時候
    鑑賞
     「冬近し」はこれといった映像を持たない時候の季語です。定石ならば、中七下五には何らかの映像を取り合わせるべきなんですが、この句に出現するのは「輪ゴム」のみ。しかも「輪ゴム」の「匂ひ」に「冬近し」という季節感を嗅ぎ取っているのですから、この作家の詩的嗅覚は大したものです。
     「輪ゴム」の「匂ひ」って?と思っている人はいませんか。近くに「輪ゴム」があれば、是非嗅いでみて下さい。ちょっと安っぽい化学の臭いだな(笑)と思う人もいるかもしれませんし、輪ゴムをつないで遊ぶゴム跳びを思い出す人もいるかもしれません。冬近い日の太陽もまた「輪ゴムの匂ひ」がしているような気もしてきます。
     
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:ラジオ番組『夏井いつきの一句一遊』2016年10月21日放送分)
  • 栗落す竿青空を滅多打ち  村尾芦月

    季語
    季節
    晩秋
    分類
    植物
    鑑賞
     「栗」の実を「落す」ための「竿」が描かれているだけなのですが、愉快にして痛快なのが「青空を滅多打ち」という措辞です。
     相手は、トゲトゲの毬をもった「栗」ですから、優しく打ったところで簡単に落ちてくれるわけではありません。握りしめた「竿」を振り回し「栗」を落とす動作が、まるで「青空」を「滅多打ち」してるみたいだという作者の感知そのものがユーモアですね。
     「栗落とす竿」という措辞で、季語「栗」の映像から「竿」へ、さらに「青空」へと映像が広がり、下五で「滅多打ち」の動きが見えてくる、この語順が巧いですね。秋の抜けるような「青空」と「栗」の茶色のコントラストも鮮やかな楽しい一句です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:徳島県俳句連盟第五一回大会大会選句集)

  • 猿酒の羽衣ほどに濁りけり  手銭誠

    季語
    猿酒
    季節
    三秋
    分類
    人事
    鑑賞
     「猿酒」とは、樹木の洞や岩の窪みなどに猿が溜めた果実が自然発酵し酒になったものを指しますが、現実にそのような酒に出会うことは無いだろうと思います。もし出会ったとしても、飲んでみるのはちょっと勇気がいりますね。
     「猿酒」を見たことはないけれど、きっとそれは濁り酒のごとく「濁りけり」と詠嘆されるべきものに違いないという空想を「羽衣ほどに」と比喩した妙なる味わい。「羽衣」という語の持つ上品さ、透明感、浮遊感、美しい天女のイメージに対して、「猿酒」の持つ俳諧味たっぷりの愉快な野卑。
     あり得なくはないが、ありそうもない虚実のあわいにある季語「猿酒」を、「羽衣ほど」と比喩できる発想に、心底惚れ惚れした作品です。

    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:第21回出雲総合文化祭・たいしゃ芸術文化祭 夏井いつき特選)

  • 晴れわたる百年後にも蘆刈つて  優空

    季語
    蘆刈
    季節
    晩秋
    分類
    人事
    鑑賞
    上五「晴れわたる」は現在の空の状況。上五で切れていると読むのが気持ちいいのですが、意味上「晴れわたる百年後」と読むことも可能。頭上の青空が「百年後」の青空へつながっていくかのような印象を醸し出します。さらに「百年後にも」というやや散文臭い助詞でつなぎつつも、下五「蘆刈つて」と蘆刈の光景が出現したとたん、読み手の意識は「百年後」の未来を思いつつ、神話の時代から「蘆」を刈り続けてきた人類の歴史へと思いが広がります。
     時空を往復するかのような発想は、人類の普遍的文化を匂わせつつも、今、「蘆」を「刈る」人々の頭上にある青空の美しさを描きます。壮大なイメージを内包した見事な「蘆刈」の作品です。
      
    (鑑賞:夏井いつき)
    (出典:松山市公式サイト『俳句ポスト365』2017年10月28日掲載分)