夏井&カンパニー読本
■コーナー名変更のお知らせ
当コーナー「夏井いつき読本」の名称を2023年12月31日(日)をもちまして変更する運びとなりました。
2024年1月8日(月)より「夏井&カンパニー読本」として投稿募集を開始します。
鑑賞文募集中。詳細は下記専用フォームから
夏井&カンパニー読本 投稿フォームはこちら花房のことばにあふれさす水分 加根兼光
- 季語
- 花房
- 季節
- 晩春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 桜が満開だ。毎年同じ桜を見ているのに、毎年心を動かされる。梢に近づくと、「花」という大きな季語はこの一輪一輪の花によって構成されているのだと実感する。
掲句を読んだとき、ひらがなに開かれた中七の一音一音に「水分」が満たされてゆくのを感じた。同じ「ことば」でも瑞々しく心を揺さぶるものもあれば、無機質で乾いたものもある。
私は私の「ことば」にしっかりと水分を与えられているだろうか。来年もまたこの桜を見に来よう。
(鑑賞:えむさい)
(出典:句集『あの年、四月の花』)
散ることのたとえば花の昼夜朝 加根兼光
- 季語
- 花散る
- 季節
- 晩春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 花の盛りは短い。満開の頃にももう散り始めている。春を感じる昼の陽気にも、静かな夜にも、そして輝く朝にも一旦散りだすと常に散っている。
この句は「~たとえば~」で繋がっている。「散る」は「命」を表している。
全ての命はやがて散る。人間もいつ何が起きいつ散るか天寿を全うする人、突然の病、事故、災害、戦争で散る人・・。
時間の流れの中で絶えず誰かが、人でなくてもあらゆる生き物が散り続けているのだ。
花を観て感じる無常。
「昼夜朝」の順番にも意味を感じる。朝が未来が万人に訪れるとは限らないのだ。
今ここに生きている奇跡を感じる句でした。
(鑑賞:あまぶー)
(出典:句集『あの年、四月の花』)
泪より少し冷たきヒヤシンス 夏井いつき
- 季語
- ヒヤシンス
- 季節
- 初春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- なんて悲しい句なのでしょう。
先ず漢字表記ですが、泪は感動や悲しみなどの深い感情によって生じる特別な涙なのです。また季語が風信子ではなくヒヤシンスというカタカナ表記である事で、より一層ヒヤシンスの花の冷たさが伝わってきます。
ヒヤシンスは恐らく冷たく光る硝子容器の水栽培で、色も紫(花言葉は哀しみ)なのでしょう。こんなにも悲しい私の流す泪の冷たさよりももっと目の前の花は冷たく悲しいと詠まれているわけですが、読み手が心の奥底に押し殺していた悲しみが、この句によって呼び起こされ火を付けられるのです。当時、俳句に親しみはじめて間もなかった私が17音の力を初めて実感した一句です。
(鑑賞:ピアニシモ)
(出典:エッセイ集『瓢箪から人生』)
地をつつむごとくに枝垂桜かな 加根兼光
- 季語
- 枝垂桜
- 季節
- 仲春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 数ある桜の品種の中でも枝垂桜でなければ成立しない一物仕立ての一句です。その一本の「枝垂桜」は、地面にしっかり根付いた幹から無数の枝が垂れ下がり、見事な花を満開に咲かせています。
この単純な情景を「地をつつむごとくに」と、表現に意思を込めた作者は「枝垂桜」を自分自身と重ね合わせているのではないでしょうか。そして自身がさまざまな経験を積んだ場所(国・故郷・家庭・仕事場など)を「地」に内包させ、そこに感謝や敬慕の念を抱いているのでしょう。
地面に触れるほどの立派な枝垂桜が映像として浮かんだ後に、それに「つつ」まれるれるように慈愛の情が湧き上がってくる感動的な一句なのです。
(鑑賞:吉野川)
(出典:句集『あの年、四月の花』)
花の昼きゅるとカランの水しぼる 加根兼光
- 季語
- 花の昼
- 季節
- 晩春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 公園の水道のカランは、なぜこんなにグラグラしているのだろう。水を出すとその反動で左右に、すこし上下もしながら小刻みに動き続ける。
手を洗っていると、風で飛んできた花びらが濡れた手に張りついた。それを水で流す。また花びらが飛んできて張りつく。また流す。そんな繰り返しを楽しんでから、きゅるとカランをしぼって水を止める。
動かなくなったカランにも濡れた洗い場にも、飛んできた花びらがたくさん張りついて、まるで美しい抽象画のようだ。
(鑑賞:片野瑞木)
(出典:句集『あの年、四月の花』)
錫杖のいつぽん春の野を打たば 夏井いつき
- 季語
- 春の野
- 季節
- 三春
- 分類
- 地理
- 鑑賞
- お四国八十八ヶ所を、公認先達の案内で巡ったときの情景がありありと眼前に浮かび上がった。共に巡る先達の打ち鳴らす錫杖の音には特別な響きがあった。苦しい山道や石段を登るとき、般若心経を唱えているとき、ジャリンジャリンと響き渡り心を揺さぶる。春の野に響き渡って万物の生長を促す力強い響きであった。
その記憶とピッタリと重なり、この一句に出会えたことが嬉しい。
(鑑賞:木谷 きょうみ)
(出典:「はじめての俳句と暦」Calendar2024 四季を愉しむ風景)
毛づくろひ終はつたやうだ春の雪 美杉しげり
- 季語
- 春の雪
- 季節
- 三春
- 分類
- 天文
- 鑑賞
- 野良猫であろうか、毛づくろいをしている。頭、胸、お腹、脚……、舌が届かないところは前足も使って念入りに。
作者は見飽きることなくそれを見ている。
「終はつたやうだ」で、短くはない時間が経過したことが伝わる。
気がつくと、明るさのある空から音もなく降る春の雪。
表記も魅力だ。ひらがなの一つ一つが、まるで重さと湿り気を持つ春の雪のようでもあるし、毛づくろいをしている猫のやわらかな肢体にも見えてくる。
猫と共有したこの時間は、春の雪とともにいつまでも作者の記憶に残るのではないだろうか。
(鑑賞:梅うめ子)
(出典:句集『愛撫』)
自画像や今日犬とゐる蝶とゐる 朗善千津
- 季語
- 蝶
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 人は誰しも自画像を描く時、己自身を深く見つめ直すに違いありません。半生を振り返り、楽しかった思い出などではなく、失ったものの数々を思い返して、不安な未来しか思い浮かばない己の顔が苦悩に支配されていることに気付くのです。しかし、鏡に映る今の自分が落ち着きを取り戻すと、はっきりと見えてくるものがあるのです。
作者は言い切りました。「今日」「犬とゐる」「蝶とゐる」と。今は犬と蝶しか見えていませんが、明日には新しい何かが見えてくるという希望の表情が感じられます。それは俳句を杖として生きていく決意をした作者のまさに「自画像」なのです。
(鑑賞:吉野川)
(出典:句集『JIGAZO』)
自画像や今日犬とゐる蝶とゐる 朗善千津
- 季語
- 蝶
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- この句の「自画像」という言葉は実際の絵だけではなく本当の「自分」という捉え方をしたい。
日々駆け回って活躍する、奮闘するそれは充実した楽しい人生であるのだが、何も予定のない「今日」の「犬とゐる蝶とゐる」だけのゆったりとした充足の時間。
その充足感にこれが「自分」なんだと気づいた安堵のような感覚。
「自画像や」の詠嘆がそれを生み出す。
季語を「蝶」にすることで春のあたたかさ、優しさにあふれる満ち足りた時間、空間を読み手も共感できる句だと思います。
(鑑賞:あまぶー)
(出典:句集『JIGAZO』)
ハイテンションな蛙と古池の改修 夏井いつき
- 季語
- 蛙
- 季節
- 三春
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 「蛙」と「古池」とくれば、俳人でなくとも芭蕉の名句が浮かぶ。本歌取りと言えるのだろうが、元句と掲句のあまりのテイストの違いに、面食らう。
だがもちろんそれも作者の計算。こちらはずいぶん賑やかな景だ。古池が回収されることになったが、蛙が「ハイテンション」なのは何故だろう。棲み慣れた古池が、変わってしまうことへの抗議? それともキレイに整備されるのを歓迎している? もしかして、蛙にも「保守派」と「革新派」がいて、双方が激しく論戦を交わしてるのかも? なんて、想像をどんどん膨らませるのも、楽しい。
同じワードを使いつつ、芭蕉とは全く違う景色なのが愉快だ。
(鑑賞:日永田陽光)
(出典:句集『伊月集 鶴』)
はこべらをこんなにつんで淋しい歌 夏井いつき
- 季語
- はこべら
- 季節
- 三春
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 幼い頃「ひよこぐさ」と母に教わり、摘んでは鶏に食べさせていた。みずみずしい葉はいかにも美味しそう。栄養豊富で食用になり春の七種にもなっている。学校や公園で飼われているウサギもよく食べるので、探してはあげていた。そんな楽しい思い出が甦るので、はこべを見つけると今でも嬉しくなる。
この句の、はこべをこんなに摘んだのは老いたお母様なのだろう。
ならばそれは淋しい。
「お母さん。こんなにはこべらを摘んでどうするの? 七種粥の時期ではないし、鳥を飼っていたのも遠い昔。お母さん。子どもに返ってしまったのね。」
何も答えずに歌っている母の顔はとても穏やかだ。
(鑑賞:冬島 直)
(出典:句集『 伊月集 鶴』)
愛の詩を噛むブロッコリブロッコリ 家藤正人
- 季語
- ブロッコリ
- 季節
- 三冬
- 分類
- 植物
- 鑑賞
- 周りの人がみんな幸せそうに見えて、自分だけが空っぽだと感じることがある。愛の詩を乞うのはそんな時ではないだろうか。
お昼休みを隅っこの席でひとり過ごす。みんなから愛されるアイドルになりたいわけじゃない。このお弁当にひとつだけ添えられているブロッコリのように、ちょっとだけ必要とされたいと願ってしまうのだ。
片耳にイヤホンをつけたままブロッコリを噛む。詩とともに少し芯の残った咀嚼音が僕を満たしてゆく。ブロッコリブロッコリ。春はもうすぐそこだ。
(鑑賞:えむさい)
(出典:句集『磁針』)
老人がゐて冬蜂がゐて戦争 夏井いつき
- 季語
- 冬の蜂
- 季節
- 三冬
- 分類
- 動物
- 鑑賞
- 「老人」が弱い存在だとは言い切れない。人は動物と異なり、時間を掛けて知識や技術を得、財産を蓄え、地位や名誉を獲得することができるからだ。掲句は「冬蜂」と並列することで、老人から弱々しい印象を引き出し、同時に蜂の具えている針と毒から攻撃的な印象も加える。他の蜂を捕食するスズメバチは、冬には自然の摂理の中で老いて死んでしまう。
人間はすこしちがう。叙述の句型により、老人は戦争の原因になり得る。一国民として若者以上に翻弄される被害者とは限らず、開戦について意見できるか、決定権を持っている。国の運命を左右する老人は、ときに儚く、弱く、攻撃的なのかもしれない。
(鑑賞:彼方ひらく)
(出典:伊月庵通信2023春号 放歌高吟)
夜を白き風車十基の大枯野 夏井いつき
- 季語
- 枯野
- 季節
- 三冬
- 分類
- 地理
- 鑑賞
- 一読、なんとスケールの大きな句だろうと感じた。
夜の闇に立ち並ぶ十基もの白き風車、この景だけでもかなりの空間であるのにそこが「大枯野」であるということで更に色のない空間が広がってゆく。十基の風車以外何も存在しない世界のよう。
人間の営みを支えエネルギーを生み続ける風車と全てが枯れてしまっている野の対比。
しかし、この風車の役割りは原発の比ではないのだろう。
「大枯野」という季語にそんなことも感じさせられる。
色のない夜の大枯野をゆっくり回り続ける十基の風車の「白」が読後残像のように残る。
(鑑賞:あまぶー)
(出典:句集『伊月集 梟』)
初夢を猫の尻尾がはみだせり 美杉しげり
- 季語
- 初夢
- 季節
- 新年
- 分類
- 人事
- 鑑賞
- 気まぐれで好き嫌いがはっきりしている我が家の猫が枕元に来て一緒に眠ってくれることは滅多にない。もっぱら配偶者の方だ。ましてや初夢をともにできるなんて奇跡だろう。
ならばこの句は、猫好きにとってまさに夢のような状況を表している。新年一等最初の夢の中は神々しい猫に満たされていてるが、その神秘的な尻尾がツンと立って左右に大きく振られた瞬間目が覚めたようだ。
「初夢」から「はみだ」した「猫の尻尾」は現実でも、枕元で作者の頬を叩いて朝ご飯のおねだりをしている。
(鑑賞:吉野川)
(出典:句集『愛撫』)